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足元を見ない船頭の向かう先

先日に関係のあることなのですが、そもそも生物はなぜ子孫を残そうとするのでしょうか。

生物は本能として、性質として拡大や繁栄するように条件付けされているような気がします。またそのような傾向にあるものだけが、今日まで命をつないできたのでしょう。

 

ヴィクトール・フランクルは、個人ひとりひとりの人生に意味があるかないかの2つのいずれかになるとしています。

子孫うんぬんは関係ないということです。

前者は子孫を得て、生物学的に「永遠化」(『それでも人生にイエスという』の表現をそのまま使用しています)するという方法に頼らなくても、意味はあるとしています。

後者の場合、ただ子孫を得て、「永遠なもの」にしようとしても、それ自体無意味なものを永遠化しようとしているだけで、結局は無意味にしかなりえません。

 

それでも人生にイエスと言う

それでも人生にイエスと言う

 

 

人が自分の人生に意味があるのかないのかを問うのは、現在絶望の中にいる人、出産できる年齢を超えた人たち、時代についていけなくなった人たち、仕事ができなくなった人たち、高齢者の人たち様々なひとに対して、社会の下す評価によって、もはや有用ではないとされ、その見解がすべてであるとされているからではないでしょうか。

 

本来であれば、宗教がさまざまなものの見方を教えてくれ、国全体で助けていくのが理想なのでしょうけど、厳しいですね。

余裕のある人は手を差し伸べずに、自分は涼しいところで、自分のやりたいことをやるだけ。目先のことを優先に国民をボランティアとして、兵士のように使おうとし、お坊さんも損得勘定で動くとなれば、先の見えない平民は意味を問いたくなりますね。

 

船頭多くして、船山登るということわざがありますが、船頭目隠しして、船はどうなるのでしょうか。