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舌足らずのカメレオン

グリーフケア、死生観、社会とか

そこに愛はあるんか

uruさんの『それを愛と呼ぶなら』という歌がある。

私はこの歌に強く心を動かされる。その理由は、私には家族がいるからかもしれない。

 

歌詞の中の“守りたいものがあると そこに未来があるんだと”という一節は、人間が守るべきものを持つことで初めて社会的ネットワークに位置づけられることを示しているように思える。逆に、守るべきものを持たない人は、社会のネットワークから除外され、「無敵の人」のような孤立状態に置かれる。

本人の意思に依らない形であっても、ボタンを掛け違える相手すらいない人もいるのではないか。

 

『オリジン』では、加害者はかつてテロの被害者遺族であった。家族を失った彼は救いを求めて教会に行くが、示されるのは「許しの道はひとつ」「右の頬をぶたれたら左の頬を差し出せ」といった教義だけだった。結局、加害者は被害者遺族としては救われず、実行犯として死ぬ道をたどる。家族を失った遺族にとって、夜は二度と明けないのだ。この例は、社会や宗教のネットワークが、苦しむ人々を包括できていない現実を映している。

 

愛は本来、家族や近しい人だけに向けられるものではないはずだ。しかし、生物学的な制約がそれを難しくしている。多くの歌や物語においても、愛が向けられる先は家族や近しい関係に限定されることが前提になっている。その結果、宗教は他宗教に対して残酷な行為をしてきた歴史がある。そして私たちは、まだその論理から抜け出せていない。

再びの暴走事件

2025年11月24日、足立区で車を盗んだ男が暴走し、2人が死亡する痛ましい事件が起きた。そのうち1人はフィリピン国籍の留学生だという。

異国の地で未来を切り開こうとしていた若者が、こんな形で命を絶たれる理由などない。

亡くなられた方々に心より哀悼の意を表します。

 

私は、オーストラリアで留学中の友人を殺害された。

夢を追う途中で、突然、理不尽に命を奪われる——

その絶望と無念がどれほど残酷か、私は骨身に染みて知っている。

そして、この国において同じような事件が起きてしまった現実に、強い憤りを覚える。

こんな死を二度と繰り返してはならない。

 

歩行者を守るために、物理的に車の進入を不可能にすることは技術的に可能だろう。

それを「利便性」の名の下に後回しにしてきたのは誰なのか。

犠牲になるのはいつも歩道を歩く子どもや学生であり、その命が軽視されていることは、あまりにも明白だ。

この国はかつて、若者の命を消耗品のように扱い、特攻隊として最前線に送り出してきた。

その「命を軽く扱う文化」は、形を変え今も社会インフラに深く染みついている。

弱者や歩行者の安全を後回しにし、管理不十分のまま放置する姿勢は、その延長線上にある。

 

国には、遺族への支援を当然の責務として果たすよう強く求めたい。遺族の方へは我々の多くも貴方方同様に心を痛めて、嘆き、怒っていますと伝えたい。

 

そして、歩道や生活道路の設計思想そのものを、命を最優先とする構造へ全面的に転換すべきだ。

もう誤魔化しも先送りも許されない。

この国が本気で命を守る気があるのか、それが今まさに試されている。

このままではいかに素晴らしい技術革新がもたらされようとも、必ずし犠牲者を伴うものだろう。

 

菅野蘭、松本ゆう雅. “「クラウンに乗りたかった」 東京・足立の車暴走 男性、容疑を否認” . Yahooニュース. 2025/11/25, https://news.yahoo.co.jp/articles/968858a4e5a491da908232d17897d1d3fcc0da8e/comments(2025/11/28)

AIによる超監視社会

AIによる技術革新を楽観的に評価する人もいれば、強い警戒感を示す人もいる。著名人でもその立場はさまざまだ。しかし、人類がここまで発展してきたのは、言うまでもなく技術革新の積み重ねによるものである。

古くは「火」の発見、近代では蒸気機関、そしてコンピューターの発明。これらの技術は光と影の両面を持ちながらも、最終的には人類をより豊かにしてきた。AIもまた、遅かれ早かれ人類に受け入れられる技術であることは疑いない。

 

生得的に視座の高い人々は、はるか未来を鮮明に見通せるため楽観的な評価をしがちである。一方で、その遠い未来に焦点を当てすぎるあまり、足元の現実に対する感度が鈍い面もあるだろう。しかし、まさに彼らこそがAIを発明し、発展させようとしている中心的な存在でもある。

後天的に視座を高さを獲得した人々もしくは低さを獲得した人々は、視点を柔軟に変えられる分、AIの有用性を認めながらも社会的影響への警鐘を鳴らす。

そして、我々のような凡人は視座が低く固定され、技術革新を脅威として感じやすい。歴史上、ラッダイト運動を起こした人々も、同じように足元の生活への危機感から行動した仲間だと思える。

 

要するに、人それぞれ見えている未来が異なるため、AIへの評価も分かれるのである。また、人を雇う側か雇われる側か、あるいはそのどちらでもない立場かといった社会的階層によっても、AIに対する姿勢は大きく変わる。階層は現実に影響を及ぼす力や資源へのアクセスを左右する要因である。影響力を行使できる立場の人間のAIへの考え方を見れば、AIが人々の生活にますます欠かせない存在になることは容易に想像できる。

各象限の個人名は皮肉にもchatgptに頼んで実施してもらった分類に基づき著者作成

 

短期的には、AIの恩恵を受けるのはごく少数に限られ、それ以外の多くの人々にとっては厳しい時代となるだろう。しかし長期的には、変化に適応できた人々とその子孫が恩恵を生き残ることになる。そう考えると、人類の遺伝子プールは適応の過程で徐々に狭まっていくのかもしれない。つまりら技術が生物学的選択を担うことになる。自然淘汰というよりも、技術淘汰であるといえよう。

 

ユヴァル・ノア・ハラリ氏は『NEXUS』において、AIはこれまでの技術革新とは異なり、有機的生命体以外が人間の思想に介入できる初めての技術であると警鐘を鳴らしている。これは、アニメ『PSYCHO-PASS』のシュビラシステムや、オーウェルの『1984年』に登場するビッグブラザーのように、監視・判定システムが人間の思考や価値観を決定する世界を連想させる。

ダロン・アセモグル氏は『技術革新と不平等の1000年史』で、技術革新が広い層に恩恵をもたらす“生産性バンドワゴン”となるには、制度が不可欠であると指摘する。しかし歴史を振り返れば、多くの場合、技術の恩恵は弱者の犠牲の上に限定的に分配されてきたに過ぎない。

現代では、監視システムは「監視する側/される側」という新たな階層を生みつつある。恐ろしいのは、このシステムが弱い立場の人々にも使いやすい形で提供され、彼ら自身が積極的に個人データをサービス提供者へ差し出している点である。すでにAIはこのデータに基づき、我々に働きかけているのはご存じだろう。

華氏451度』では、主人公は全てを捨ててようやく監視の目を免れる。我々にそこまでできるだろうか。

 

 

経済、未来の不安が高いとき、同調圧力が強いとき、人は自由よりも安全を求め、管理を受け入れる傾向があるといえるだろう。だが、現状は人々はそれを自覚することもなく、テクノロジーを使っているようで、アルゴリズムに使われているのではないだろうか。

 

男女の間の深い溝

空と君との間には今日も冷たい雨が降っているが、男と女の間には今日も深い溝がある。

『男性中心企業の終焉』を読み終わって、男がこれだけ社会的地位を死守したがるのは、能力主義と関係があると考える。著者が言うように、役割を失うことへの恐怖がそうさせていると思う。戦争がなくなった今、仕事を失うということは、新しい世代を産める女性と違い男にとっては、存在意義の喪失と同義である。 

多くの女性は子を産む力を持つか、かつてその力を持っていた。それだけで人類に貢献できるといえよう。だがほんの一握りの突出した能力を持つ男以外の人類の役に立てない多くの男をどう生かすか。

一方、『男が心配』では男らしさの呪縛を紹介する。能力を持たない男がどのように疎外されているのか。女性の社会進出に伴い、格段に増えるであろう、能力を持たない男達が今後どのような道を歩むのか。男性間の権力構造に注目し、抑圧を受けている男性は、権力を持つ男性、女性、そして社会からの抑圧を受けているとしている。こちらは継続的に取材を続け、取材対象者がどんな人生を送ってきたのかがわかる。

Xで、『すべての男は社会からのうっすら嫌われている』というポストがあった。類人猿では、チンパンジーやヒヒなど、若いオスがそれまでの秩序(ボスザル)に反旗を翻し、新しい社会を構築する。このことからも社会にとって若いオスは脅威になることがわかるだろう。

人間の社会では生物的な力の他に社会的地位すなわち権力の存在がある。それを持っているのは多くの場合、オジサンである。権力闘争に敗れそれを持たないオジサンは社会の網目をすり抜け、社会に対し反乱する動機を持つ。そのようなわけで人間の社会では、若いオスも年老いたオスも脅威であり、うっすら嫌われているのであると考える。

また権力を持つ男たちは社会に受け入れてもらうため、社会的地位にしがみつくのだ。

 

性別は自分ではどうしょうもないものである。人類の役に立つ能力の獲得は、どうだろうか。努力でどうにかなるものだろうか。

性別による差別を無くそうという動きはあるが、能力による差別を無くそうという動きは、果たしてあるだろうか?

 

一夫多妻制は男性が優位な社会でこそ成り立つと思われているが、男女平等な社会でも結局は一夫多妻となるだろう。現代では女性が主体的に配偶者を選べるようになり、貧富の差が拡大している。億万長者の第二夫人、第三夫人になったほうが、資源を獲得できる社会になり、それを選択できる自由があると言えるだろう。ただし現代ではまだ制度的に時間差的な一夫多妻制ではある。

そして、一妻多夫制社会は存在しない。これは類人猿のオスメスの体格比から説明可能だ。これは、生殖戦略的にどうしようもないものだと考える。

生殖戦略に敗れた男たちは社会にとって危険因子となる。だからこそ、そうした反乱因子を減らすために、これまでは多くの女性を犠牲にして社会が成り立ってきたのだ。男というだけで戦場に駆り出され、その命が使い捨てにされていたこともまた事実だろう。戦争がなくなり、男が死なない昨今、女性に対する抑圧だけが目に見える不平等となる。

 

女性の社会進出が進むにつれて、女性にも市場価値が付与された。すでに婚活市場では、経済力がある女性のほうが有利であると言えよう。(※1)

これは、女性が主体的に配偶者を選べるという肯定的な見方もできれば、市場価値が少ない人間にとっては男女関係なく厳しい社会になりつつあることを示しているのではないか。

ミスコン廃止の運動は学力に秀でた女性にとっては有利に、外見的な魅力に秀でた女性にとっては不利になるだろう。これは能力主義が性差を超えて影響し始めている表れだろう。まさに男性社会の権力構造を思わせる。

 

結局、男をも女をも苦しめているのは、性ではなく“役割”を過剰に期待する社会構造であり、今後は、いやもうすでに能力主義という思想が支配を始めている。

 

※1:天野 馨南子, “「収入を隠さない」女性がお金持ち男性にモテる訳”, 東洋経済オンライン, 2024.6.11

https://toyokeizai.net/articles/-/760145?page=3(2025.11.8)

歴史は終わらない

日本は「失われた○○年」と呼ばれて久しい。その間に、かつて途上国とされたグローバルサウス諸国は大きく発展した。いまや権威主義体制を維持したまま、経済力や軍事力で存在感を増し、民主主義国家にとって大きな脅威となっている。

しかし一方で、欧米諸国が過去にこれらの地域をどのように搾取してきたかは歴史が物語っている。長く搾取されてきたグローバルサウスが、今度は搾取する側にまわったとき、国際社会の規範を破ったとして、どの国が本当に批判できるだろうか。

 

こうした状況もあって、民主主義国家の将来には危機が懸念される。そもそもフランシス・フクヤマ氏が「人類にとって最終的に理想の政治システム」と評した民主主義が、果たして本当に理想なのか——そこには疑問の余地がある。

古代アテネ古代ローマでは、一度民主主義が興ったものの、やがて他の体制に取って代わられた。民主主義国家が再び同じ歴史の韻を踏むかどうかは、これからの選択次第だろう。

 

民主主義はその性質上、内部に分断を生みやすい。『嫉妬論』では、人間的な感情としての嫉妬が民主主義を蝕む可能性が指摘されている。

それは原初の頃から変わらない、人間が他者よりも優位に立ちたいという欲求である。

 

階級の垣根を取り払ったことで、かえって個人間の不平等があらわになり、生物的な本能としてこの事実は否定しがたい。問題は、人類がこの現実をどう受け止め、どのような社会を目指すかにある。北欧は高福祉を選び、アメリカは競争を選んだ。日本はアメリカを追随しながらも、高齢化の進行もあり中途半端な状態にある。

 

相対的剥奪に関するフランス・ドゥ・ヴァールによるオマキザルの実験が示すように、人も自分の立場を損なう恐れがあっても、より上位の他者の不利益を望むことがある。また、制度への“タダ乗り”を許せないと感じる傾向も強い。

これらは生存本能に根差すもので、他者と比較することも避けることは難しいだろう。

 

一方で、より高い地位にある者は、自らの地位を専ら能力の結果と考えがちだ。低い地位の人々に対して「努力が足りない」「能力がない」と断じる、いわゆるメリトクラシー的発想である。だが必要なのは、少数のエリートの能力に依存するのではなく、多くの「普通の人間」でも回るシステムへの転換ではないだろうか。人類は複雑な社会を築くことで繁栄してきたが、『サピエンス全史』によれば、元来ヒトは多くても150人程度の群れで暮らしていた。現代社会の規模は、人間が本来適応してきた範囲を大きく超えているのかもしれない。

 

サカナクションの『ユリイカ』という歌がある。東京という街で、多くの見知らぬ他人と過ごしている現代。そこでは誰もが少しでも他人より優位に立とうと生き急ぐ。

 

 

エマニュエル・トッド氏は、イギリス、フランス、アメリカのように核家族主義が早く根づいた国々が、より早く民主化を遂げ、見知らぬ多数と協力する社会を築けたと論じている。

一方『国民の底意地の悪さが、日本経済低迷の元凶』では、日本はいまだ精神的にムラ社会の性格を残しており、このような大規模社会に馴染みにくいと指摘される。トッド氏の家族型論でも、日本は父系家族に分類され、これをムラ社会の名残と考えれば説明がつく。さらに、この家族型と国家イデオロギーとの相性があるという説に立てば、戦前に少なくとも形式上は民主主義だった日本に対して、イラクアフガニスタンベトナムアメリカが同様の民主化を試みても失敗したことは理解しやすい。

 

民主主義は終わりではなく、むしろ終わりなき理想を模索し続ける始まりである。

民意に支えられ、何度でも自らを作り直す——その果てしない試みこそが、民主主義を民主主義たらしめる。

だからこそ「選挙に行くか行かないか」という次元の論争は、民主主義に対する謙虚さを欠いた議論と言わざるをえない。

支持したいと思えるような政党、候補者がいない、という方は選挙とは出来るだけマシな政党、候補者を選ぶものと考えてみてはどうだろうか。

 

大河の一滴

トルストイの小説『アンナ・カレーニナ』では、冒頭に以下のような一節がある。

 

「幸せな家庭はどれも似ているが、不幸な家庭はそれぞれに違っている。」

 

24時間テレビで、子供の貧困問題が取り上げられていた。当事者が若い頃からお金を稼ぐ立場にいけたからこそ、家族を支えることができたように思う。それは努力で何とかなるものだろうか。それだけだとは考えられない。またそもそも、発信できる立場にいない、多くの人に訴える手段がないという人々がたくさんいることだろう。

 

この番組が放送されて少しして、おにぎりを買えなかった幼い兄弟に関するポストがXで流れてきた。

 Xでは政府に対する批判、親に対する批判、助けない 周りに対する批判があった。

しかし前述した一節から見るように、幸せにはすべて満たすべき必要条件があるが、不幸せには一つの条件が欠けるだけでも起こることを考えれば、その対策も多岐にわたり、すべてを包括する事ができるのか、疑問である。

 

そして、私はこの問題にもっと深いものがあると考える。多くのポストと同様、この問題を解決できれば良いと思っているが、制度は人の行動を変えうる。

例えば仮に解決したとして 子供育てるためのコストが低くなれば、一部の人が制度を悪用するリスクにつながるかもしれない。制度設計には、人間の性質や社会の文化的背景を踏まえる必要があると考える。

 

またなぜこの問題がこれほど見過ごされてきたのか。資本主義のマイナスの面として、格差を生む。そして、言うまでもなく、人間にとって他人の不幸は蜜の味に感じるという側面を直視しなければならない。格差の是正には社会の連帯感が不可欠だが、社会が連帯感を持つのは、共通の脅威や悪とみなされる存在がなければ難しい。

 

また この問題は 昨今話題になっている日本人はファーストとの共通の根があるように思う。

エマニュエル・トッド氏によれば、日本が権威主義的父系家族であり、兄弟間に不平等があったからである。このような家族の多い国では女性の地位が低く、自民族中心主義になりがちであるとしている。

同氏の家族構成からその国や社会を考えるのは、興味深い。人口に関するデータは予測しやすく、入手もしやすい。そして、GDPと違って、見かけ上大きくしたり、小さくしたりするようなインセンティブは働きづらい。

 

見て見ぬふりをしがちなメカニズムは、『何もしないほうが得な日本』でも言及されている。

資本によって共同体が破壊された今、ますます助けてくれる周囲はいなくなるだろう。しかし、政府は共同体内でまず相互扶助が行われる前提の下、政策を決めているのではないか。

共同体が破壊された時をトッド氏はキリスト教圏では、同性婚が認められた時だとしている。日本では、それは義両親と同居しなくなった時、もしくは夫婦別姓が導入された時ではないかと、個人的には思っている。

そして同氏によれば、これは不可逆的なものだという。

そうだとすれば、大きな時代のダイナミズムに我々はどのように対応すればいいのだろうか。

最低限度の生活を保障しているならば、社会としてはそのような環境に陥る前に救う仕組みを作っていかなければいけないのではないだろうか。

24時間テレビの芸能人のような恵まれたものを持っていなければ、生きる資格はないのだろうか。