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宗教が見せる世界、賢者が見る世界

先日実家が建て替えをするということで地鎮祭に参加した。

友人の件を受けて神などいないと言いつつ、土地神へ手を合わせ、無事に工事が終わること住人が末長く住めることを願った。

最近は宗教との関係が話題になるが、宗教というものはこの理不尽な世界で壺を買えば救われる、献金すれば救われる、戒名を与えてあげれば救われるといったものが多い。日本に一般的な仏教を含めて。

こうすれば救われる型の宗教を信じたい人たちは救われたいと思っているのだろうが、仏陀四諦を説いたことを思い出していただきたい。
生きることは本質的に苦であること、どこかに苦しむ人を救ってくれる神などいないことを仏陀自身が言っている。

インドの賢者たちはこの理不尽な世界はあるがままの世界だと言っている。

あるがままの世界、Let it beの世界がどういうことかはポール・マッカートニーが作成した『Let it be』の下記の解説を読んでみてください。

https://www.worldfolksong.com/sp/popular/beatles/let-it-be.html

雪の日

雪が降って積もった次の日の朝は、静かだ。
私の経験上近しい人が亡くなったときには、普段通りに過ごしていてもいつもより静寂を感じることがある。
雪の積もった翌朝はそんな時に似ていると思う。

殺害された友人の兄の家では、スノーグローブの贈り物を飾っているらしい。
これは友人の兄の奥さんが白血病による治療で半年間入退院を繰り返していた期間に同じ病院で過ごした若い方のご家族から頂いたものということだ。クリスマスを病院で過ごすことになったため、もらったという。
置物が嫌いな奥さんが飾る数少ない特別な置物だ。

残念ながらこの若い方は先日亡くなってしまった。
そしてこの方にも弟か妹がいたようだ。

友人の兄のように事件や事故の被害者遺族だけでなく、病気で亡くなられた方も含めて、兄弟姉妹を亡くした方へのケアは見過ごされがちだということだ。
もしかしたら、子供を亡くした親を気するあまり、自分自身の悲しみにすら気づいていないかもしれない。
友人の兄が交通事故被害者遺族の会の方にお話を伺った時に、その代表の方からも言われたようで、自身と同じく残された兄弟姉妹の方を案じていた。

前にテレビでこのような話が紹介されていた。
新郎デリック・スミスさんの新婦ケイティさんが、10数年前交通事故で亡くなったデリックさんの弟ジェイクさんの臓器提供によって心臓移植を受けたグレイシーさんを探しあて、結婚式に招待した。
以前からデリックさんはジェイクさんを結婚式に呼びたかったと言っていたそうだ。

その時にグレイシーさんからデリックさんにプレゼントされたキーホルダーには心電図の波形とともに下のようなメッセージが掘られていた。

「僕は急に逝くことになってしまった。僕たちはさよならを言わなかったね。でも兄弟が離れ離れになることはないんだ。だって大切な思い出が消えることはないから。」


次男を亡くした柳田邦男さんの本『犠牲(サクリファイス)』にこんな文章がある。

百年の孤独

冷たい夏の夕暮れに、私の二十五歳になる
次男洋二郎が、突然自ら死出の旅に出てしまった。

時は冷酷なまでに過ぎ去っていくが、
彼の部屋だけは凍結されてしまっている。

殺害された友人の部屋は丸5年が経とうとしているが、今も当時のままだそうだ。
スノーグローブの中の雪のように消えずに時が止まったまま凍結している。
せめて遺族の心境にだけはいつの日か雪解けが来ることを願って止まない。

赦し

少し前にテレビでテキサス州ダラスで起きた警官による殺人事件が紹介されていた。
被害者は黒人男性で、犯人は白人女性であった。自宅を間違えた勤務明けの警官が部屋にいた男性を侵入者と勘違いし、発砲し殺害した。
対象が黒人男性だったから警告もせずに発砲したのではないかということがポイントになったようだ。
人種差別問題が絡み注目されたこの事件は、結果的に白人の警察官が黒人を殺害した事件としては珍しく有罪になった。

裁判で判決が下されたあと、被害者の弟・ブラント・ジーンさんは犯人を赦し、ハグをした。ブラントさんのスピーチの翻訳は別の方の記事をご参考ください。ハグをしているときに、加害者・アンバー・ガイガーが何かを言ってブラントさんもうなづいている。
youtu.be

この動画中でブラントさんにハグをしてもいいかと問われ、「yes」といった裁判官のタミー・ケンプさんもその後加害者に今後の助言をし、聖書を渡し抱きしめたと伝えられている。
法廷に聖書を持ち込んだこの行動には批判も上がっているようだが、ダライラマ法王による仏教の考え方を指針にするのであれば、刑務所に入るときより良い人間になってほしいと願うタミーさんの思いが起こした行動は良い行動といえるのではないか。

ひとつの行為が悪い行いなのか、よい行いなのかを決める境界線は、その行為をしたときの心の動機によって決まります。
池上彰と考える、仏教って何ですか?』池上彰著.飛鳥新社.2014 より

しかし、話にはまだ続きがある。
判決の数日後に遺族のために証言をした証人が何者かに殺害されたようだ。証言したことと無関係とするには無理があるように思う。
ダラス警察はこの事件で、証拠を隠滅しようと色々と工作したようだし、まだまだ事件の根本的な問題は根深いようだ。

ブラントさんにはもちろんさまざまな苦しみや怒りがあったに違いない。そのうえで赦すという結論に至ったことや法廷での言動や行動はとても勇気のあるものだ。
それにしても赦すことはそう簡単にできることではない。世界で1番難しいことだと思う。
簡単に赦すことができないから、いつまでも報復合戦が終わらない。
自分だったら到底赦すことはできないだろう。

しかしクリスマスや年末を迎えるの時期はそんな自分のことも赦そうと思う。
「あなたが神のところへ行き、尋ねたならばきっと神はあなたのことを赦すでしょう」とブラントさんもスピーチ中で言っているように。

the foreigner

『ザ・フォーリナー/復讐者』という映画を見た。
内容はテロで娘を失った父親が、犯人を探しだし復讐するというものだ。

ここから先はネタバレを含みます**

家族を殺害された遺族の中には、主人公のクワンのように犯人に復讐したいと思っている人もいるだろう。
これは当たり前の気持ちだと思う。
通常私たちがモノや食べ物を消費するとき、対価を払う。お金を借りれば利子までつけて返さなくてはいけない。
殺人犯というのはよほど残忍性がなければ死刑にはならない。無期懲役にもならない。海外であれば死刑自体を廃止している国もある。
冤罪の可能性や過失なのか故意なのか、不可抗力なのか色々な場合があるだろうから、仕方がないとは思う。

ただ現行犯で殺意があっても思った以上に軽い刑罰で済む例もあるだろう。
その場合、一時的に自由が制限されるがそれが奪ったものと釣り合いがとれているのだろうか。私には甚だ疑問である。
お金やモノであれば同等の価値があるものを返すことができる。しかし命は返ってこない。
取り返しのつかないものへの代償が時間といえばそうなのだが、時間だってある程度はお金で買えると言えよう。

未解決だった事件を解決したドキュメンタリーで遺族へインタビューシーンがあるが、犯人を捕まえることだったり、死刑制度のない国で極刑を望むといった回答があるが、本心ならば非常に先進的な人だなと思う。
自分が家族を殺されたら、犯人やその家族には生まれてきたことを後悔するようになるまで苦しめてやりたいと思うだろう。

またこの映画のタイトルにもなっているが、主人公が外国人であることも何かのメッセージだと感じる。ただの復讐劇を描きたいのであれば、別に外国人ではなくてもいい。
主人公が壮絶な過去を経験し、なんとか生活をしているなかでの悲劇であったという復讐する強い理由づけをしたかったからなのか、外国人が だからという理由で様々なサポートを受けられないということを強調したかったからなのか。

クワンはそれまでの経緯もあり、またいわゆる無敵の人になってしまったことから、それを実行に移す。
クワンは復讐を終えてもクワンの表情はずっと晴れないままで映画は終わる。
それでもクワンの帰りを待っていた人がいたことが唯一の救いだった。

氏か育ちか

『実力も運のうち能力主義は正義か? 』(マイケル・サンデル著)という本があるのを知った。残念ながらまだ読めていないが、岡田斗司夫さんが解説をしている動画がYouTubeにあげられている。
本書は平等を理想としてきた世界が採用した能力主義によって生まれた分断を指摘している内容のようだ。


解説動画ではエリートたちの傲慢さは功績があげられたのは、自分達の努力の賜物である。だから、他の人たちが成果をあげられないのは努力不足だからである。という見方が根底にあるとしている。
しかし岡田氏は生まれもった努力では越えられない壁があり、さらにそもそも努力できるかどうかは努力できる遺伝子があるかどうかであるということを自身の運動能力と140kmで野球のボールを投げるティモンディ高岸さんを比較し述べている。

ここで私が気になったのは犯罪をおかしてしまうのも生まれもった遺伝子によるものだろうか。
ある不良少年が素晴らしい先生に出会って改心した。というよくある話も、その先生に出会って、今までの自分の振る舞いに気付ける能力も生まれもったものではないだろうか。どんなに素晴らしい先生に出会っても、改善できない人はできないだろう。

とすれば犯罪や非行に走るまたは走りやすい遺伝子、攻撃的な性質というのは存在する気がする。

言ってはいけない』(橘玲著)や『遺伝子の不都合な真実』(安藤寿康著)の著書によれば私たちの行動の一つ一つが遺伝子の影響を受けているという。どの程度の影響なのかと言われれば、少なくないといえるようだ。しかし、たとえば遺伝によって疾患しやすい病気があるのなら生活習慣を変えることで対策できる。としている。

果たして本当にそうだろうか。習慣を変えるというのは容易いことではないと思う。
現在の習慣だったり、考え方のクセを取得した過程がすでに遺伝子の影響のように思う。

結局のところ、人間は遺伝子に支配されているのではないだろうか。ある意味、私たちの思考すら運命であり、神の意思(遺伝子の意思?)であり、私ができることはないのかもしれない。

いずれにしても遺伝がどのように人生に影響を及ぼすのか、研究や実験結果に今後も注目していきたい。

入国管理での死亡事件

名古屋出入管管理局で拘束中の外国人が失くなった。
留学で在留資格を取得したのち、不法残留となり収容されたようだ。

入管職員達は不法残留という法を犯したから、あそこまでひどい扱いをしたというように見える。犯罪者だから、命を軽視した扱いをしていいのか。
それは第二次世界大戦中、ユダヤ人や戦争捕虜に対して人体実験を行っていた当時のドイツや日本と同じことだ。
日本は今もあの時のまま法だけが代わり、なんとなく人権という言葉が出現しただけで、結局人を拘束したりする側の国だったり、国の人間は何も変わっていない。これは国家ぐるみの殺人であるといっても過言ではないと思う。

そして、調査も死因が特定できず、難航しているようだ。もっともそれはおそらく国が記録を改竄・隠蔽しているからだろう。
私は高度経済成長の遥か後に生まれたが、あの時代の日本はすごかったというのも嘘なんだろうな。頑張ってきたのは国民だけで、政府はまた数字を改竄し都合の悪いことは隠蔽する。そういうことをしてきただけなんだろう。オリンピックを通して世界の国が日本に対して嘘つきの国だと、そのように抱いてくれれば、ある意味成功である。世界の国から責められて政府がようやく自分達のやり方が不味かったと気づくきっかけになるかもしれない。内外からの信頼なんて無いことにようやく気づくかもしれない。

すべてを奪われても残るもの

今回も前回に引き続き、『死別の悲しみに向き合うグリーフケアとは何か』から。

たとえつかの間のユーモアでも人に希望をもたらすということだ。どんなに大きなものを失っても、すべてを失ったわけではない。私たちは明日も生きていけるし、事実生きていくのだということをユーモアは力強く語りかけてくれるのだ。

ビクトールフランクルの著書『夜と霧』でも第二次世界大戦中に強制収容所で生き延びた人とそうでなかった人を分けたもの、これが希望ということだった。収容所で少ないパンを他人から奪う人もいれば他人に与える人もいたそうだ。どちらが希望もって生き、生き延びる可能性が高かったのかは言うまでも無いと思う。 ここでいう希望とは、単なるこうあってほしいという欲求ではなく、意味や目的と言い換えることができるだろう。

生きる意味や目的を持てた人はどのようにして持てたのか。それは自分が主体となり期待するのではなく、人生や他の誰かがが自分に対して期待していることは何かと問うことだという。

私は友人が事件に巻き込まれ、すぐ隣にいた人が生き延び、友人が亡くなった差についてはどうしようもない逃れることが出来ない運命というものをずっと感じていた。

そして、犯人が犯行に及んだ過程についても、仮に犯人の家族を含む周囲の人間の悪い影響や、オーストラリアの法律、司法の判断など様々な要因が重なった結果であり、それぞれが避けられないものだった思っている。

しかし『夜と霧』ではたとえすべてを奪われても、自分の行動は自分の意志で決めることが出来る。という強いメッセージを感じる。

仮に犯人と全く同じ人生を歩んだとしても、犯人のように自暴自棄になって薬物に染まらず、他人を傷つけない人もいるだろう。フランクルのように家族を失いながらも、収容所を生き延びた人々のように。

自分が絶望の中にいる時こそ自分の本質が見えてくるものだと思う。

自分が人生から期待されていることが何なのかは、自分にしか答えることはできない。残念ながら、友人を殺した犯人は薬物と暴力をもって答えた。

我々はどんな答えを出すだろうか。