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すべてを奪われても残るもの

今回も前回に引き続き、『死別の悲しみに向き合うグリーフケアとは何か』から。

たとえつかの間のユーモアでも人に希望をもたらすということだ。どんなに大きなものを失っても、すべてを失ったわけではない。私たちは明日も生きていけるし、事実生きていくのだということをユーモアは力強く語りかけてくれるのだ。

ビクトールフランクルの著書『夜と霧』でも第二次世界大戦中に強制収容所で生き延びた人とそうでなかった人を分けたもの、これが希望ということだった。収容所で少ないパンを他人から奪う人もいれば他人に与える人もいたそうだ。どちらが希望もって生き、生き延びる可能性が高かったのかは言うまでも無いと思う。 ここでいう希望とは、単なるこうあってほしいという欲求ではなく、意味や目的と言い換えることができるだろう。

生きる意味や目的を持てた人はどのようにして持てたのか。それは自分が主体となり期待するのではなく、人生や他の誰かがが自分に対して期待していることは何かと問うことだという。

私は友人が事件に巻き込まれ、すぐ隣にいた人が生き延び、友人が亡くなった差についてはどうしようもない逃れることが出来ない運命というものをずっと感じていた。

そして、犯人が犯行に及んだ過程についても、仮に犯人の家族を含む周囲の人間の悪い影響や、オーストラリアの法律、司法の判断など様々な要因が重なった結果であり、それぞれが避けられないものだった思っている。

しかし『夜と霧』ではたとえすべてを奪われても、自分の行動は自分の意志で決めることが出来る。という強いメッセージを感じる。

仮に犯人と全く同じ人生を歩んだとしても、犯人のように自暴自棄になって薬物に染まらず、他人を傷つけない人もいるだろう。フランクルのように家族を失いながらも、収容所を生き延びた人々のように。

自分が絶望の中にいる時こそ自分の本質が見えてくるものだと思う。

自分が人生から期待されていることが何なのかは、自分にしか答えることはできない。残念ながら、友人を殺した犯人は薬物と暴力をもって答えた。

我々はどんな答えを出すだろうか。