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一番辛い経験

静岡県熱海で豪雨によって土石流が発生し、死者安否不明者が多数でている。
亡くなった方には心からご冥福をお祈りします。

友人がオーストラリアで殺害された時に遺族が対面したとき、歯は欠けて、痣だらけ、擦り傷だらけ、耳から体液が出ていた等酷い外傷だったようだ。さぞ痛かったことだろう。それでも身元を判別するために誰かが遺体を確認しないといけない。

今回も遺族の方がきっと遺体を確認していることと思う。どれだけの痛みや苦しさがあったのか、想像するよりも如実に感じられることだろう。なぜこんな目に遭わなくてはいけなかったのか…。そんなことを考える方もいるだろうし、傷ついた外見が一生頭から離れないこともあるかもしれず、一番辛い経験かもしれない。

エーリック・リンデマンの研究によれば、突然大切な人を亡くした人は急性悲嘆とされ、心身症心理的要因となりうるとしている。声を掛けられずとも寄り添い、肩を擦ってくれる人がいることを願う。
同研究によれば身体的苦痛、死者のイメージに心を奪われること、罪責感、敵対的反応(怒り)などといった反応は起こりうるとされているし、それ以外にも冷たい感情ややけくそになったり卑屈になったりなど、することがあるかもしれない。それは悲嘆の経過でありそのような感情を抱いた自分に驚くことがあるかもしれないが、それは当然だろう。それだけのダメージを受けているのだから。自分を傷つけることはしないでほしい。
大阪大学の論文のデータベースでリンデマンの著した論文を読むことが出来る。その論文では火災で亡くなった方の遺族への取材をもとにいくつかの例が挙げられている。

また今回は、過去に盛り土を実施した土地が流されたということであるが、その盛り土量が申請内容と乖離していたり、行政はその業者に対し、指導のみ実施し法的な措置を講じなかったとされている。以上のような人災な面も取り上げられている。
このようなことがある度に、不幸な出来事というのは法的な問題、人々の判断の問題が必ず絡んでくると感じる。
 

覆水盆に返らず

故意に殺人を犯した人間、他人の人権を奪った人間が人権によって司法に守られていることに矛盾を感じる。
冤罪による被害を減らすためには、適正な手続きをふむというのは必要かと思うが、現行犯の場合は一考の余地はあるのではないか。もちろん正当防衛や虐待を受けていた等の背景にも考慮するという前提だが。

人の命は亡くなったら、どうあがいても返っては来ない。

オーストラリアで殺害された友人の兄は外国人ということで、距離的な問題から金銭以外の指支援を一切受けられないこと、そしてその支援金(自動車による死亡見舞金:免許証代や違反による罰金から成る基金と市民の寄付金)も内訳の限りでは外国人の死亡に対しての純粋な弔慰金は一切出なかったことから、州首相に問い合わせの手紙を書いたそうだ。
受け取った返事の内容には、人の命はお金では測れません。と記載があったそうだ。お金では測れないから一切の弔慰金が支払われなかったのだろうか。
ある記事によれば、オーストラリアではVSL等の手法を用いて命の値段をつけているようだ。ということは、将来的に国に貢献しない可能性のある外国人には、測れないのではなく、価値がないということになるだろう。

所持品については証拠品として回収されるため、そのモノと同等の金額は返してもらえたようだから、一応そのようなルールがあるのだろう。

また遺体の確認・回収のために遺族は現地に呼ばれたが、渡航費はその支援金から出たとのことだから、自動車よる死亡ではなく、また一人しか殺害されておらず小さな事件として処理されてしまっていたら、支援金や寄付金は一切貰えず、渡航費、滞在費すべて実費で賄わなければいけなかったのだろうか。

日本からは海外で殺害された遺族の方には弔慰金が払われるが、海外に行く人は万が一に備えて、自分がその国で死んだ場合の手続きや適用される法律を調べて、必要に応じて滞在中の保険に入っておくことだ。
友人の遺族も外国人ということで、逸失利益を請求する裁判も起こせないようだ。

留学などでは都市部への訪問は魅力的だが、移民が多く、その移民や移民2世が多くの犯罪を犯しているし、他人を平気で傷つけることができる。殺人や薬物に対する抵抗が少ない。
もちろんそうではない移民というのもいるだろうが。犯罪に簡単に手を染める移民にはある傾向というか系統があるような印象だ。
あくまで主観的なので信憑性はないが。
海外へ行くときは通りすがりの人間に理由もなく、いつ殺されてもおかしくはないとの心構えを持ったほうがよい。
自分で自分の身を守らないと。特に外国人には冷たい国では。

出会いと別れ

『死別の悲しみに向き合う』のはじめに下のように書かれている。

死に別れることは、一部の人だけが運悪く経験するような特殊なできことではない。
 -中略-
いったい一年間にどれだけの日本人が死別を経験しているのだろうか。その数を明確に示すことはできないが、けっして少ない数でないことだけは確かである。

また同書では3世紀後半の西晋時代の潘岳という文人の詠んだ詩に触れている。
潘岳が愛妻を亡くした時に嘆き悲しんで詠んだ悼亡詩とうぼうしの一部である。

盧を望んでは其人を思い
室に入っては歴し所を想う
帷屏に髣髴たること無きも
翰墨には余跡有り
流芳は未だ歇くるに及ばず
遣挂は猶お壁に在り
悵怳として存すること或るが如く
周遑として忡えて驚惕す
ーーー
家を眺めては妻の姿を思い出し
部屋に入れば、ともに暮らした日々を思う
とばりや屏風のあたりにはもう妻は見えないが
筆のあとがまだ残っている
薫きしめた残り香は消えないで
着ていた衣服が壁に掛かっている
ぼんやりと、まだ生きているかと思い
はっと気が付き、驚きあわてる
(石川忠久訳)


今日もどこかで罪のない人々が亡くなっていることだろう。もし自分が大切な誰かを亡くした時に、病気で孤独になった時に、悲しみや苦しみを抱えながらも笑えるように、なんとか日常に戻れるように、私にとって力をくれる歌を忘れないように記事にしておこう。

『かたちないもの』(柴咲コウ)
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『Start』(Every Little Thing)
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国の中心で

殺害された友人の兄の奥さんが以前白血病を発症したと書いた。
最初は蓄膿症と診断されたが、彼女は納得がいかず、セカンド・オピニオンということで別の医師をあたったところ、急性骨髄性白血病と診断され即入院したそうだ。

医師の診断を受けて普通はそれを信じると思う。
何がそこまで彼女を納得させなかったのか、聞いてみたところ、『世界の中心で愛を叫ぶ』というドラマを見たことがあり、そのドラマでヒロインも侵される白血病の症状と酷似していたそうだ。
ドラマを放送していた時期からすると、10年以上前も話だ。
もう少し発覚が遅かったらどうなっていたかわからない。


競泳の池江選手が記憶に新しいが、競技に復帰して素晴らしいパフォーマンスを見せている。

その一方で、治療が及ばず亡くなった方もたくさんいる。
患者さんは抗がん剤治療中は無菌室で一緒に過ごしているため、交流ができる。
友人の兄の奥さんと同時期に入院していた若い方が少し前に亡くなったそうだ。
共に病気に苦しみ闘ったから、彼女も堪えたと思う。

ある人は回復しある人は助からない。何が違ったのか、何が悪かったのかこれといった答えは出ないと思う。
ただ通りを歩いていただけて知りもしない人間に殺害された友人の状況と似ていると思う。

そんなとき神のみぞ知るという言葉が頭をよぎる。たとえ原因があったとしても人間には到底理解できないだろう。
『なぜ私だけが苦しむのか』では著者は悪いことは時に理由もなく起こることもあるとしている。
その上で不公平で理不尽な現実にどのように折り合いをつけるのか。社会が助けてくれればいいのだが…。

コロナ禍といわれて早1年半ほど経過した。ワクチンができてもまだ終わりは見えない。
身を切る思いをするのは国民だと思う。国を動かす立場の人間は国民の税金によって支えられている。
がん細胞は最後には宿主とともになくなる。
繁栄を極めた国も生物も衰退する時が来る。
何かいい手はないものか。

ストレートジュース

最近ある資格試験を受けた。
数年前から試験を受ける当日はストレートジュースを1杯飲むルーティンとなっている。
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きっかけはとあるブログで紹介されていたことからだ。そのブログでは英語系の試験対策で、試験は午後から始まるため、試験会場に移動後の水分補給のおすすめとして紹介されていた。そのほかにも、試験の前日からの準備が紹介されているので、毎回参考にしている。

実際のところ、体調への効果はわからない。
しかも食物繊維が少なく、その割りに果糖が多いというし、結局衛生的な点から加熱殺菌をしているようなので、健康にいいかどうか微妙なところである。
たまにならということで、友人へお祝いとしても送ったりしたこともある。

以前は栄養的な面を考慮し、低速ジューサーというものを使っていた。理由はお手入れが面倒だっちめ、処分してしまった。いいものでも頻繁に使うとなると、管理も重要である。それで試験の時等特別な日にストレートジュースを飲むようになった。
モノを購入するときはそんなところも考えたようと思った。

ちなみに殺害された友人の兄は同時期に奥さんが白血病になったが、抗がん剤治療で持ち直した後、低速ジューサーでニンジンレモンリンゴのジュースを作っているらしい。
調べてみるとゲルソン療法*1というものがあった。野菜を多く採る食事療法である。
本当に効果があるのかはわからないので、紹介程度に留めておくことにする。

リンカーンとカワセミ

子供の好奇心はすさまじい。
すぐに新しいもの、見慣れないものを触りたがる。いつも回りをキョロキョロ見回し面白そうなものはないか探しているようだ。

殺害された友人も新しいものやサービスが好きで子供のような性格だった。
だから海外にも興味を持ち、留学をしたのだろう。
年を重ねても新しいことに挑戦し続けたい。

I am not concerned that you have fallen – I am concerned that you arise.
あなたが転んでしまったことに関心はない。そこから立ち上がることに関心があるのだ。

これはは第16代アメリカ合衆国大統領リンカーンの言葉だ。

彼はこうも言っている。

It’s not the years in your life that count. It’s the life in your years.
あなたの人生において大切なのは、年齢ではなく、いかに生きたかである。

志半ばだったが情熱的な人生を送ったと思う。


クラフトコーラを生産している伊良コーラさんという会社がある。
数十種類のスパイスを配合したくせになるコーラで、夏にぴったりだ。
伊良コーラさんのコーラボトルにはカワセミが描かれている。なぜカワセミをモチーフに選んだのか、それを知った時、リンカーンカワセミには共通点があると思った。

ユダヤ民話

以前、殺害された友人とともに亡くなったユダヤ人のことを書いた。
また『なぜ私だけが苦しむのか』という本を読み、ユダヤ人がいかにして苦難を乗り越えてきたのかについて興味を持った。

下記の本に紹介されているユダヤ人の民話にこのような話がある。
民話というのはどれも何か大事なことを伝えるような役割がある気がしてならない。

お静かに、父が昼寝しております――ユダヤの民話 (岩波少年文庫)

お静かに、父が昼寝しております――ユダヤの民話 (岩波少年文庫)

  • 発売日: 2015/12/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

腹を空かせたオオカミと知恵者のキツネ

腹を空かせたオオカミがキツネに楽に食料が手に入る方法を聞き実行するも、うまくいかず。
キツネの策略通りに井戸に落ちて上がって来られなくなる。
キツネはその後にライオンに鉢合わす。

ーーー

ここで物語は終わっている。
ユダヤ人に伝わる民話はこのように結末が描かれていないものまある。
この物語はどうなったのだろうか、何を伝えたいのだろうか。この話からどんなことを学べるか考えてみた。

まずは他人のアドバイスをそのまま鵜呑みにしてはいけないということ。特にお金が発生するような関係であれば、なおさら慎重にアドバイスをもらう人を選べということ。
一方で、人を騙せばその後自分も困難に出くわすということ。嘘や欺くことは必ずしもあとで露呈するという前提で行動したほうがよい。
その時に騙した人を仲間にしていたら一人よりも簡単に切り抜けられるかもしれない。

涙の起源-旧約聖書から-

知恵の実を食べ、エデンの園を追われたアダムとイヴが働くことの辛さを嘆き、神に涙をあたえてもらう話。
神曰く(下記『お静かに、父が昼寝をしております ユダヤの民話』母袋夏生編訳 より引用)

「知恵がもつ痛みとかなしみからおまえたちを守り、豊かなエデンの園で無垢のままずっとすごさせてやりたかったが、おまえたちは知恵をえらんだ。
知恵とともに、苦しみと痛みを、勤勉に努力して前進することを、自立して生きる苦労を、かなしみや絶望を知ることを、おまえたちはえらびとった。

~中略~

おまえたちは、自らの知恵で、苦しくてきびしい、だが、創造的で心おどる新たな世界を、エデンの園の外におまえたち自身で創りだすことをえらびとった。

~中略~

胸が痛み、魂が嘆きかなしむとき、大切な者が災難にあって苦衷に満ちるとき、胸がはりさけそうなかなしみにひたるとき、目から涙がこぼれ落ちるようになる。涙がおまえたちの重荷をといて、痛みをやわらげてくれるであろう」

ーーー

辛い時は泣いて悲しめば悲しむほどに、痛みと向き合うことが出来る、といわれている気がする。
「泣くこと 研究」で検索すると、泣くことの効用がたくさん研究されていて、多く共通して言えるのはストレスを低減できるそうだ。

犯罪の被害で辛い時には各都道府県の警察署に設置されている犯罪被害者支援室でカウンセラーを紹介してもらったりするといいかもしれない。
しかし最終的にはオオカミのようにならず、自分で自分を救おうとしないといけない。