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日本の仏教

以前、亡くなった友人のことを書きました。

その時のことをふと思い出しました。

 

その友人の兄弟が話してくれました。

葬儀の際のに友人につけた戒名に70万円程したと。

さらには、お経をあげる際に名前も年齢も間違えていたと。

 

彼は無差別殺人で殺害されました。子供がそのような恐ろしい事件で命を落としたのにも関わらず、担当の僧侶の方はご両親に慰めるような気を遣うような言葉すらかけず、淡々とお勘定の話をしたそうです。

 

また彼の一回忌か三回忌でのことですが、別の僧侶の方に「なぜ先祖は兄弟をも持ってくれなかったのですか」と聞いたそうです。

「海外にいて守れなかった」という返事が返ってきたそうです。

 

日本の仏教はあまりにもビジネスライクな葬式仏教だと感じます。

葬式の設備なんて、棺桶と食事以外は使い回しだと思います。支払われたお金は寺の維持と僧侶の方の給料になると思いますが、高齢化社会で亡くなる人が多くなれば安くなるというわけではないのですね。

 

僧侶といえど、自身の生活が懸かっているのか、費用も安くはありませんし、他人の痛みがわかる人ばかりではありません。

私としては、友人の兄弟のように心に大きな傷を負いながらも生きている方に僧侶やカウンセラーなどになってもらいたいと思います。

 

仕事でミスをすれば、その分追加で工数がかかりますし、部品代もかかるかもしれません。お客様は傷ついたものは返品できます。

お坊さんに対しては……ボイスレコーダーでも持参するしかありませんね。

NOTHING CHANGES IF NOTHING CHANGES

先日某大型ストアでシリコンのブレスレットを見かけた。

そのブレスレットには

 

NOTHING CHANGES IF NOTHING CHANGES

 

とデザインされていた。

 

何も変えなかったら、何も変わらない

 

という意味であるらしい。

 

変化は自ら起こるのか、それとも起こすのか。

 

万物は流転する

樹木は生育することのない

 

無数の芽を生み、

 

根をはり、枝や葉を拡げて

 

個体と種の保存にはありあまるほどの

 

養分を吸収する。

 

 樹木は、この溢れんばかりの過剰を

 

使うことも、享受することもなく自然に還すが、

 

動物はこの溢れる養分を、自由で

 

嬉々とした自らの運動に使用する。

 

このように自然は、その初源から生命の

 

無限の展開にむけての序曲を奏でている。

 

物質としての束縛を少しずつ断ち切り

 

やがて自らの姿を自由に変えていくのである。

 

 

この詩はみなとみらい駅で見ることができます。その壮大さに驚きと言葉の美しさに長いエスカレータに乗る時間も短く感じます。

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万物は流転するというのは古代ギリシアヘラクレイトスの言葉ですが、同じようにこの世のすべてのものは常に変化していくということと、その儚さを見事に表現していると思います。

 

今はもうない思い出の場所を通りかかったときに、寂しいような懐かしいような気持ちになります。その時見たもの、遊んでいる友人の声、吹く風の匂い等はもう二度と体験することはないけれど、たしかにその時そこに存在しているのだと思います。

 

恵みをもたらすのも神、災いを呼ぶのも神

私の友人は若くして亡くなりました。たまたまその時その通りを歩いていたというだけで。その時一緒にいた別の友人も骨折しました。

その二人を分けた差は何だったのか。

神の存在を疑ってしまいます。

『なぜ私だけが苦しむのか』という本で著者は、神は善人にふりかかる災いを防ぐことができない。神は全能ではない。としています。

 

 

なぜ私だけが苦しむのか―現代のヨブ記 (岩波現代文庫)

なぜ私だけが苦しむのか―現代のヨブ記 (岩波現代文庫)

 

 

 

私はそれ以上に、すべての人に良いことも悪いことももたらす太陽のような存在だと思います。悪人に恵みをもたらすこともあるでしょうし、善人に災いをもたらすこともあるでしょう。

この世界は非常に残酷なところです。人生は不平等です。

しかし、良いことにも悪いことにも巡り合う可能性は誰しもがあります。お金持ちや権力者は巡り合う可能性を減らしていますが、0にはなり得ないと思います。

 

誰にも平等に与えられるのは、死だけですね。

私もあなたも今日死ぬかもしれませんよ。

 

からし種の寓話

ゴータミは若い母親でした。

息子を授かった時、彼女はとても幸せでした。

しかし、息子は走り回って遊ぶことができるようになった頃に、突然亡くなってしまいました。

ゴータミはショックのあまりにその現実を直視することができませんでした。息子を抱きかかえ、周りの家々を訪問し「息子のために薬をください」と渡り歩きました。

しばらくして、友人の一人がとある僧に相談してみるように勧めてくれました。

その僧は薬の材料にするからと、ゴータミにあることをするように言いました。それは町の家を回って、今までに死人を出したことのない家からからし種をもらってくることでした。

しかし、どの家を訪ねても、返事は同じでした。どこでも誰かが死んでいると聞かされました。

結局ゴータミは誰からもからし種をもらえず、悲しみとあきらめを胸に、町のはずれに行き、息子を埋葬しました。「愛しい息子よ。死によって連れ去られたのはお前だけのように思っていたが、私は間違っていた」悲しみいっぱいの儀式を終えたゴータミは、子供にそう呼びかけました。

ゴータミは僧院に戻り、僧にからし種をもらえなかったことを涙ながらに伝えました。

僧はそんなゴータミを優しく抱いて迎えてくれました。

「あなたは子供を失った悲しみに正面から立ち向かったのです。これからは少しずつ悲しみに囚われることは減っていくでしょう」

 

 

 

悲しみがやさしくなるとき―子どもを亡くしたあなたへ

悲しみがやさしくなるとき―子どもを亡くしたあなたへ

 

 

 

ブッタとシッタカブッタ (心の運転マニュアル本)

ブッタとシッタカブッタ (心の運転マニュアル本)

 

 

この話はお寺のお坊さんにも聞いたお話です。

私たちはこの世界の理不尽な選択を受け入れざるを得ない時があります。そのようなときにこの話を思い出します。

 

しかし、それぞれの家庭の死の形は同じでしょうか。年長者から順番に老衰で亡くなるのと、生まればかりの赤ちゃんが病気や事故でなくなるのとでは全く違うと思います。

そのようなときに、この残酷な現実に私たちはどのように向かい合えばいいのか。

戦争中のように多くの人が不条理な死を迎え、多くの人が遺族として悲しみを経験したと思われる時代であれば、お互いに支えあって、もう少しうまく現実と折り合いをつけられそうな気がしますが…

 

子供のころよりも、大人になった今のほうが戦争を体験した人に聞きたいことがたくさんありますね。

 

足元を見ない船頭の向かう先

先日に関係のあることなのですが、そもそも生物はなぜ子孫を残そうとするのでしょうか。

生物は本能として、性質として拡大や繁栄するように条件付けされているような気がします。またそのような傾向にあるものだけが、今日まで命をつないできたのでしょう。

 

ヴィクトール・フランクルは、個人ひとりひとりの人生に意味があるかないかの2つのいずれかになるとしています。

子孫うんぬんは関係ないということです。

前者は子孫を得て、生物学的に「永遠化」(『それでも人生にイエスという』の表現をそのまま使用しています)するという方法に頼らなくても、意味はあるとしています。

後者の場合、ただ子孫を得て、「永遠なもの」にしようとしても、それ自体無意味なものを永遠化しようとしているだけで、結局は無意味にしかなりえません。

 

それでも人生にイエスと言う

それでも人生にイエスと言う

 

 

人が自分の人生に意味があるのかないのかを問うのは、現在絶望の中にいる人、出産できる年齢を超えた人たち、時代についていけなくなった人たち、仕事ができなくなった人たち、高齢者の人たち様々なひとに対して、社会の下す評価によって、もはや有用ではないとされ、その見解がすべてであるとされているからではないでしょうか。

 

本来であれば、宗教がさまざまなものの見方を教えてくれ、国全体で助けていくのが理想なのでしょうけど、厳しいですね。

余裕のある人は手を差し伸べずに、自分は涼しいところで、自分のやりたいことをやるだけ。目先のことを優先に国民をボランティアとして、兵士のように使おうとし、お坊さんも損得勘定で動くとなれば、先の見えない平民は意味を問いたくなりますね。

 

船頭多くして、船山登るということわざがありますが、船頭目隠しして、船はどうなるのでしょうか。

 

38億年前から

ヒトはなぜ生きるか

究極的には種の存続、すなわち子孫を残すことだと思います。

私たちの受け継いだ遺伝子にそう組み込まれていますからね。

 

人は自分の遺伝子を残そうとします。別に子どもなんかいらないって人も、いるかとは思いますが…

それはさておき、仮に様々な理由で子孫を残すことができなかった場合、それを自然淘汰とか性選択とか呼びますが、そのヒトの人生は無意味になるのかどうかということです。